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宮司のいい話

No.212

札幌八幡宮物語

■菊池家のあゆみ
私は札幌八幡宮の二代目宮司として現在奉職させて戴いていますが、初代宮司、父重武は菊池家神職十四代目となります。重武が七十一歳で亡くなり、十五代目を北海道神宮の神職をしていました私の実兄重勝が継ぎ、重勝が平成十年に五十四歳で亡くなりましたので、宮城県の塩竃神社に神職として奉職しています、兄の長男重忠が現在菊池家神職十六代目を継いでいるので、菊池家の神職としての歴史は四百五十年続いています。
初代から十一代目までは箱館八幡宮(現函館八幡宮)の社家として奉職していました。社家というのは、その神社を世襲的に代々継いでいく神職の家柄をいいます。箱館八幡宮の十一代目宮司菊池重賢の時、箱館八幡宮が官幣社となり国の神社となりました。国の神社となってしまったので世襲で箱館八幡宮を継ぐことができなくなり、重賢は札幌神社(現北海道神宮)の二代目宮司として、国からの辞令で転勤させられました。この時、初代から十一代まで社家として継いだ箱館八幡宮と菊池家のご縁が切れてしまったのです。
札幌神社の初代宮司は着任に至りませんでしたので、実質の初代宮司として着任致しました重賢は、北海道の全神社を取り締まる布令頭として、北海道の神社界の開拓に貢献しました。やがて、札幌神社も官幣社となり国の神社となりました。
当時、神社では宗教の布教活動は禁止されており、布教活動が許されるのは「神道本局」に所属する教会だけでした。重賢は、これからの神道の発展には布教が大切であると考え、明治十三年に札幌神社の宮司を退任し、「神道本局」、現在の神道大教の初代管長稲葉正邦公から教導職の辞令を戴き、神道の布教に専念しました。後、現在のすすきのの中心地(南五条西四丁目)に金刀比羅崇敬教会を創立しました。明治三十三年に七十歳で亡くなるまで、重賢の一生は、北海道の神道界の発展のために布教一筋に命を捧げられた生涯でありました。重賢は、京都の吉田殿学館の守護職、玉田家の四男として生まれ、菊池家の婿として入られたのです。重賢の生家、玉田家は代々吉田家の学館守護職として神道布教に当たっていた名家です。
重賢が亡くなった後、金刀比羅崇敬教会は重賢の孫、十三代目神職菊池重雄が継ぎました。金刀比羅崇敬教会は、当時の信徒総代の方より五百坪の土地が寄贈され建立したものでしたが、当時のことでしたので土地寄贈の書類を交わしておらず口約束だけでした。時代が変わると土地の権利者が変わり、突然教会立ち退きを言い渡されたのです。
おどろいた重雄宮司でしたが、権利証がなければどうにもならず、金刀比羅崇敬教会を札幌の中島にあります、水天宮の境内に移設することとなりました。
それから数十年間、水天宮の神主と金刀比羅崇敬教会の神主を兼ねてご奉仕していましたが、水天宮に後継ぎの神主が新たに着任しましたので、高齢となった重雄宮司は、札幌市中央区南五条西十一丁目の民家に移り住みました。
又、金刀比羅崇敬教会もこの時、解体され、箱館八幡宮時代からお祭りしていました御神体は移転先の菊池家の一室に移されお祭りされることとなったのです。民家に移り住むようになりましても重雄宮司は古くからの信者さん達のお参り事を続けていました。
重雄宮司には二人の息子がいましたが、長男は神職を継がず、二男の札幌八幡宮初代宮司となった、重武が後を継ぎました。
重武は昭和十五年に古くからの信者武藤家の娘トシヱと結婚しました。両家の親同士が決めた結婚でありましたが、トシヱは「親が良いと思って決めた結婚であるならば、間違いはないのだから、頑固で厳しいおしゅうとさんが居るとは聞いているけれど、良い嫁となっておしゅうとさんに務めよう」と心に決めて嫁いできたのです。
重雄宮司はおじいさんである重賢に学問を習い、箱館八幡宮にいた時には、八歳にして朝四時に起こされ、祖父重賢に連れられて函館山を散歩して、朝五時には八幡宮の太鼓を打ち、同時に重賢と共に神前奉仕を行い、それから部屋で机に向かわされ、朝食前には必ず勉強をさせられました。どんなに寒い冬でも朝四時には起こされ、ある時には寒いと言って泣いたら井戸端に連れて行かれ、頭から水をかぶせられたのです。
そんな厳しい毎日の日課でありましたが、始めて創立された函館師範学校に入学し、一番で卒業しました。そのようにして厳しく重賢に仕込まれた重雄宮司でしたので、やはり厳格で頑固な人でした。
そんな厳しいおしゅうとさんに八十歳で老衰で亡くなるまでの十三年間、トシヱは一所懸命仕えました。■神の名代
重雄宮司が亡くなる一年前、トシヱの子ども達が次々と病気になり、トシヱは一心に神様にお願いして病気を治してもらいましたが、自分自身信仰していく気にはまだなれなかったのです。そして再び末の男の子が遊んでいて急に倒れてしまい、すぐに病院へ連れて行きましたが亡くなるということが起こったのです。
トシヱは死んだ子を抱いて心で神様に叫びました。
「分かりました。私がどうしても信仰していかなければならない運命でしたら、やります。やっていきます。どんな辛い修業でも信仰でも致しますから死んだ子どもを返してください。二人しかいない男の子です。男の子を返してください」と神様に誓ったのです。
そして翌年七月、神様がお聞き入れくださったのか男の子が生まれました。それが私、重敏です。
子どもを授かったトシヱは喜びが半分、神の恐ろしさが半分で言い知れぬ気持ちになりました。「どんなに辛い修行でも致します」と約束したトシヱは、石にかじりついてでも神様との約束は守らなければならないと決心しました。
男の子が生まれたその年に、おしゅうとさんの重雄宮司が亡くなりました。厳格な重雄宮司は七十五歳まで神主の仕事を続け、四年間床について老衰で亡くなったのです。重雄宮司が亡くなって九十八日目にトシヱが朝神様にお参りしている時、突然トシヱに神様が乗り移り、「今日より汝に神の名代を申し付ける」と言われたのです。
それからは、神様に向かうと自然に言葉が出てきたり、耳に聞こえたり、テレビを見ているかのように心に映ったり、不思議な体験を繰り返し、有り難さと恐ろしさが心の中を交錯するトシヱでありました。
自分は修行を何一つしていないし神様の御名代など務められるものではないと思うと、また声がするのです。「汝は小さい時から孝行者で、さらには厳しい舅にも仕えた徳が、今汝を神が使うのだ。ここが修行道場だと思って朝晩時間をきめて修行せよ」というお告げが聞こえたのです。
トシヱは、毎日の神様のお参りの時間を、朝七時、夕方五時と心に決め、どんな都合があろうとも黙々と実行し、三十年間一日も休まず、一分も遅れることなく続けました。
そして教えを求め救いを求めて来る人に対して、神様にお伺いをして答えると「当たる」と言って大勢の人々が来るようになったのです。
ある日いつものように、朝お勤めをしている時、「今日から市内の行者を回り、修行して来い」と神様のお告げがあったのです。■トシヱの修行
トシヱは、札幌生まれでも、どこにも出たことがなく、今日は東、明日は西へと心を決めて出掛けました。そして歩いて行くと「ここで修行せよ」と神様のお告げが聞こえるのです。
そこはお寺であったり、神社であったり、行者の修行する道場であったりしましたが、中へ入り、「神様のお告げで修行に参りました。神前をおかしください」とお願いすると皆神前や仏前に案内してくれるのです。
そして、神前や仏前に向かうと霊感が入り、お告げを懇々とお話しするのです。するとお告げを聞いた人達は皆「今日は客人が見えるから良く話を聞くように」と朝夢でお知らせがありましたと待っていたのです。
札幌市内の修行を行って数カ月後、今度は「北海道一周せよ」との神様のお告げが出されました。しかしトシヱは迷いました。どうしても気に掛かるのが、五人の子どもと主人のことです。長い間家を留守にすると何かと不自由な思いもするだろうと考え、この度の「お使い」は無理かもと思い悩んでいると、家族皆で夕食を食べている時、突然トシヱが呼吸困難に陥って苦しみ出したのです。そして苦しむトシヱの体を借りて「この者は神の用事があるために生かしてやる。神の使いをしなければこのまま眠らせる」、との神様のお告げなのです。
それを目の当たりに見ていた子ども達は、「父さん、母さんを修行に出そう。母さんが家にいなくても何年家に帰らなくても、日本のどこかで修行していると思えば会える楽しみもあるでしょう。大丈夫だから早く神様にお詫びして母さんを助けて、このままでは死んでしまう」と、泣いて父親にすがりました。
そして、重武と子ども達が神様にお願いしていましたらトシヱの呼吸がだんだん落ち着いてきました。
トシヱは子ども達に「家を空けて修行に出かけてもお前たち留守番できるか」と念をおしましたら、「心配しないで、神様のお使いをしておいで」と、子ども達は答えました。
トシヱは五人の子ども達の綱をしっかりと心に持って修行の旅に出たのです。そして一カ月かかって色々な宗派のたくさんの宗教家達と出会い北海道一周の修行を無事に遂げました。
トシヱが北海道一周の修行の旅に出る三年ほど前、滝川に住む行者で真言の教えに徹底した人が札幌に来られるから会いに行きましょうとの誘いを受けて、トシヱが行者をたずねるとそこには、信仰の深い人達が大勢集まっており、行者の佐々木法海先生のお話を熱心に聞いていました。
佐々木法海先生がトシヱの顔を見るなり、目がらんらんと輝き、別人のようになっていきなり「お前は我欲が強い、その我欲を取れ。心が黒いぞ、その心を直せ。人には差別をするその心を悟れ。天照大神は金銭物質で天照大神になったのではないぞ、お前のその心を直せ」と大きな声を張り上げてトシヱに言うのです。
トシヱは悔しいやら、情けないやら、恥ずかしいやら、自分で自分をどうすることもできずに悔し涙が出て止まりませんでした。しかしトシヱは心を静めて、自分に言い聞かせ「初めて会った人が初めて言うのだから自分のどこかにその心があるのだ。よし、自分は必ず心の眼を開いて見せるぞ」と固く決心しました。
過去を振り返り、現在の自分を見つめても、その場その時を苦しくとも自分の使命と思って喜んで努めてきたトシヱにはどうしても自分を見つけることができず、苦しみに苦しんでいるある朝、朝日の昇るのをじっと見ていたトシヱは思わず「アッ、わかった」と心で叫びました。今まで目の前が真っ暗であった心に一点の光明を見つけたのです。
「自分は何と愚かな人間なのだ。自分の通ってきた道に間違いはない。自分の考えは間違っていないと思いこんでいたので、なかなか自分を見ることができなかった。自分の頭の上を、いや、世界を照らしてくださる御天道様。自分はもちろん、人間は余りにも当然な大自然の法則の中に生きているため、気がつかないのだ。日蓮もこの朝日を仰いで妙法をあみだした。太陽がなかったら世の中は闇だ。何ひとつとして育たない。貧乏も金持ちもなく地位の高い人も低い人もなく、平等に照らし、草木一切をあの燃ゆる暖かい熱で育ててくださる。太陽の下で人間として生まれ、自分は何を考え何をしたか。振り返って見ると人には差別をし、金銭にこだわり、人様に嫌なことを言われれば腹が立っていた自分。何一つとして取り柄のない自分の心を鏡に写すことができた」トシヱは太陽に向かって思わず掌を合わせ「有り難うございます」とお礼を言いました。
そして「自分を知ったからには自分を磨くのだ」と思い、佐々木法海先生に師事をお願いし、それから仏教と神道の両面から信仰の研究を行い修行に励んだのです。
話は戻りますが、トシヱが北海道一周の修行の旅から帰ったのもつかの間、今度は「修行に出よ。各本山を回って使いせよ」との神様からのお告げが出されたのです。
その時、佐々木法海先生が「女一人では無理だ、私も行くから一緒について来なさい」と言われたので、トシヱは百人力を得た思いで、全国の修行の旅に出ました。「身延山」「京都の醍醐寺」「高野山」「「永平寺」「創価学会の大石寺」「天理教」等の各本山に出かけたのです。そしてそれぞれの最高位の方々とお会いして、意義のあるお話を交わし、どこの宗派の本山に伺っても丁重に持てなされたことを「心の宝」として全国の修行の旅から帰ったトシヱは「信仰の研究」を続けようと「宗教道場」の看板を出したのです。
トシヱが佐々木法海先生に師事を受けること五年余りで法海先生は昭和三十八年に亡くなりました。法海先生は世の中の乱れは宗教家から修行し心の目を開いて世の立て直し、国家の救済に立たなければならない。と多くの宗教家達に心の修行を教え導いて来られた素晴らしい行者でした。■宮を建てよ
法海先生に厳しく指導されたトシヱは、師が亡くなった後も多くの迷える人々を救ってきました。そして昭和四十二年神様のお告げが下されたのです。「宮を建てよ。今から準備せよ」とのことでした。重武とトシヱは神様のお告げに従って信者さん達と相談してお宮建設のための積立を始めたところ、神様のお告げにより新天地輪厚の里が選ばれたのです。五十人の信者さん達が毎月一千円ずつ十年間積み立ててくださり、それをお宮建設の頭金とし、更に郵政局から一千万円借用しそれに加えて、重武、トシヱのすべての財産を投入し合わせて六千万円の予算で、札幌八幡宮が建立されたのです。信者さん達は神社建設後も、更に五年間積立を続けてくださり郵政局からの借用金をすべて返済することができました。「宮を建てよ」との神様のお告げから十年目で神社を建て、十五年目ですべての返済を果たしたのです。
札幌八幡宮が完成したのが昭和五十二年の春です。その時長男の重勝は北海道神宮の神職として務めており、私は東京にある國學院大学神道学科の四年生でした。「重勝はご先祖が初代宮司として務められた北海道神宮の神職として立派にご先祖の意志を継いでいる。札幌八幡宮はお前が守っていく神社だから、自分がやりたいようにして札幌八幡宮を発展させなさい」と、両親に言われ、私は大学を卒業した後、札幌八幡宮の禰宜として奉職させて戴くこととなりました。
重武は札幌八幡宮の初代宮司ですが、札幌の中心にある今までの家は、信者さん達がお参りに来やすいので、神社に引越して住むことができず、札幌八幡宮は親戚のおばが留守を守っていました。
札幌から輪厚の八幡宮までは二十二キロメートル位あり、バスで来るには一時間以上かかりますので、信者さん達は毎月十日の月次祭に来られる位で、普段はほとんど参拝者のない神社でした。
私は東京にある本部の神道大教に住まわせて頂き、そこから國學院大学へ通い、神主の勉強をさせて頂いていましたので、卒業の後も御礼奉公のつもりで一年間本部に書生として務めさせて頂き、神社が完成して一年後に札幌八幡宮禰宜として神社に入りました。当時、私は二十四歳、輪厚の人口は一千二百人位で五百戸位の住宅しかない畑とゴルフ場ばかりの田舎。そんな所に急にお宮が建ったので住民の人達も驚かれましたし、変な新興宗教が来たのではないかとけげんに思われる人もいました。
当時の神社収入は月に一度の月次祭に信者さん達が十数名お参りに来られてお供え頂く玉串料、三万五千円位が一ヶ月の総収入でした。私は札幌八幡宮に奉職して心に誓いました。
十年掛けて食べていけるお宮にしよう。二十年掛けて大勢の人達がお参りに来てくださる有名なお宮にしよう。三十年掛けて境内地とご社殿を大きくしよう。と決心したのです。
まず地元の人達に札幌八幡宮のことを理解していただこうと、町内会や老人クラブなどの色々な会合に顔を出させていただきご挨拶をしたり、地元の人達と信者さん達の交流会を開いて親睦を図ったりしました。そうして溶け込んでいくうちに地元の人達も徐々に神社に足をはこんでくださるようになってきました。
先代の宮司は、地鎮祭や上棟式等の外祭で忙しい札幌の神社に、助勤神主として手伝っていました。やがて、私もお手伝いさせていただくこととなり、助勤料をいただいて神社の収入としました。奉職を始めましてから二・三年経ちますと、車祓や厄祓等の社頭祈祷や地鎮祭、上棟式等の外祭も少しずつ神社にご依頼されるようになってきました。私は、何処の神社でもしているようなご祈祷の仕方では、田舎に突然できた神社にはそうそうご祈祷のご依頼はいただけないだろうと思い、何か特徴あるご祈祷の仕方をしようと考えました。極力真丁寧なご祈祷を心掛け、そして、外祭の上棟式では習いたての詩吟をお祝いに吟ずることにしました。これが建築業者さんに大変喜ばれ“詩吟をしてくれる神主なんて初めてだ”と評判になり、口伝えに外祭のご依頼が随分と増えてきました。
奉職から五年経ち、神社収入も増えて、そろそろ結婚しても食べていけるかなと思い、何度かお見合いをしましたが全然決まりません。その時、神様から母に「ここは宮であるぞ、住宅を別に建てよ」とのお告げがあったのです。私は当時神社の二階に住んでいたのですが、両親は早速神様のお告げに従って、住宅を増築してくれることになりました。そして上棟式を迎えた頃、妻の優子との見合い話が持ち上がり、中々決まらなかった結婚がアッと言う間に決まったのです。
私が二十九歳、優子が二十四歳でした。その頃には、神社収入も徐々に増えて一ケ月二十五万円位となりましたので、十万円位のお給料を頂いて何とかやっていけるかなと思っていましたら、所帯を持つと予想以上に色々な経費がかかるもので、とても二十五万円の神社収入では維持費と生活費が間に合いません。困ったなーと思った途端、一晩で円形脱毛症となり、私の頭には百円玉位のハゲができてしまいました。しかし“案ずるより産むが易し”で、今まで留守が多かった分、仕事も逃げていたのでしょう、結婚してから神社収入がどんどん伸びてきたのです。
結婚した年、昭和五十八年に札幌八幡宮初代宮司、父菊池重武が突然胃ガンのため他界してしまいました。七十一歳でした。父は神主らしい神主というか、祭式作法も祝詞の声も素晴らしい魅力を持っていました。
そして私が二代目宮司を継いだのです。結婚一年後に、長男重孝が誕生しました。重孝が生まれたとき、女房は神社の境内一杯に梅の花が満開に咲いた夢を見たそうです。同じ日に母は、海から龍がやって来る夢を見たそうです。そして母は、この子が学問の神様を繁栄させるかもしれないと言いました。札幌八幡宮の御祭神の中には、今から約二百年前に京都の北野天満宮より御分霊を戴いた、学問の神様菅原道真公の御神体が祀られているのです。■チャンス到来
一カ月もしない内に母の予想は見事的中しました。電話帳に学問の神様の広告を載せていたのですが、それが目に止まったのでしょう。テレビ局から取材がやって来たのです。当時の新聞には高校受験合格者の名前が発表されていましたので、私は毎年合格祈願者のお名前を調べており、神社ができてから七年間、一人も受験に落ちた人がいなかったのです。それをテレビで話しましたら大反響で、翌年の初詣には、今まで五百人位の参拝者がいきなり三千人に増え、誰もが学問の御守りを受けていかれるのです。それから何度もテレビやラジオの取材を受け、三千人が五千人。五千人が六千人と毎年参拝者が増え、今では二万人の方が初詣においでくださいます。
何処でチャンスをつかむか分かりません。
学問の神様としての名前が広まり、参拝者が徐々に増えて参りますと、百坪の境内地だけではとても狭く、駐車場も取れない状態で、ご参拝者の皆様に大変ご不自由をお掛けしていました。将来資金ができたら、境内地を広めてご社殿を奥に下げ、参道を長く作って神社らしい境内にしたいと思っていました。
すると、第二のチャンスが到来したのです。
国道36号線拡幅工事に、神社の階段が半分掛かってしまったのです。開発局との交渉の結果、神社で土地を購入し、ご社殿を後ろに移設することになりました。移設費として開発局から約五千万円が出ることとなったのです。“渡りに船”といいますか、大変感謝しました。そして、総代や神社役員と相談し、境内地拡張整備事業協賛会を組織し、総経費一億円の事業を行うこととしました。不足分の五千万円は信者・氏子様にご寄付をお願いすることになりました。神社に隣接した土地を五百五十坪購入し、神社を後ろに移設し、拝殿と社務所を増築し、更に五十坪の参集殿を新築する大事業となりました。そして、大神様の御守護のお陰を戴き、信者様・氏子様の絶大なるご協力を戴いて立派に完成したのです。新天地輪厚の里に札幌八幡宮を建立しましてから、十三年目にして、念願の大事業を遂げたのです。更にその後、平成四年には奥殿の増築事業、平成九年には御社殿屋根増築事業、平成十八年には、鳥居立て替え・霊殿増築事業を次々と行い、神社建立時、百坪の境内地に五十坪の御社殿であったものが、現在六百五十坪の境内地に百坪の御社殿と五十坪の参集殿が建つ神社へと発展しました。
私が國學院大学を卒業して、札幌八幡宮に神職として奉職を始めたころの夢は、数倍に膨れ上がって実現されたのです。
このように、何故すべてが順調にしかも驚異的な発展をすることができたかを考えると、やはり菊池家十五代にわたって神職を守り続けてきたご先祖様の思いが、神様の御守護をいただき、人の心を動かし、良き運をもたらす力となった結果だと思います。そして神様が「輪厚」の地を選ばれただけあって、神社建立の当時から現在に至るまで、地域住民の方々が好意的に素晴らしく協力してくださるのです。現在百人以上の祭典委員によって夏季大祭を地域あげての盛大なお祭りにしてくださっています。母トシヱは平成十九年十二月十五日、八十九歳の天寿を全うするまで、札幌八幡宮の発展と迷える人々への精神的救済に全身全霊を傾け、一貫して信仰に生き抜いた素晴らしい人生を送りました。そしてお宮発展のために多大な功績を残してくれました。
この上は、札幌八幡宮を活動の土台として、ご先祖様の意志を継ぎ、神道界の発展、国民の精神的救済に務めていきたいと思います。

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