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宮司のいい話

No.171

願えることのありがたさ

神道と仏教の考え方の中で、大きな違いを感じるのは、神と仏の御利益についての考え方ではないかと思います。
神道では、すべてのことに対して神様の御加護をお願いします。例えば、商売繁盛であったり、病気平癒祈願であったり、入学試験の合格祈願であったり、作物の豊作であったり、工事の安全祈願であったり。何かにつけて神様にご守護やお導きをお願いします。
しかし仏教、とりわけ、お釈迦様の教には、因縁生起という考え方が根本思想になっていると思います。因縁生起とは略して縁起といいますが、縁起が良いとか、縁起が悪いとかの縁起です。この意味は世の中の一切のもの事は、さまざまな原因や条件が寄り集まって成立しているということです。ですから原因があって結果が生まれるのであるから、結果を良くしたいならば、原因を良くしていかなければならないという考え方です。
もっともなことですが、こうした考え方からは、奇跡とか偶然ということは認めないわけです。すべてが理論的に説かれています。たとえ奇跡とか偶然に感じられるようなことがあったとしても、必ず原因や条件があって、結果が生まれてくるのだから、奇跡とか偶然というものではない、という考え方なのです。
そうした考え方からは、すべてが原因によって結果が生まれてくるのだから、神仏にお願い事をして叶えてもらうとする考え方は生まれてこないのです。ですから、神社で入学試験の合格祈願をしたり、御守を買ったりしても意味がないとお坊さんは言います。自分が合格できるように勉強を頑張らなければ、試験に合格できるわけがないんだから、勉強をしっかりやりなさいというのです。正論であり、その通りだと私も思います。
しかし、神道の考え方には、少し違いがあります。それは、神道では、奇跡や偶然も神様のお導きと考えることができるということです。「人事を尽して天命を待つ」という言葉があります。これは力の限りを尽して、その結果は神のみぞ知ることで、運命にまかせる、という意味です。ですから、「自分のできることはすべてやりました。後は神様におまかせすることでございますので、どうぞ宜しくお願いします」ということで、神様に色々なお願い事をするのです。
理屈を離れ、ひたすら神様にすがることを神道では認めています。
我々は神様の子どもなのです。子どもが親に甘えるように、我々は親である神様に甘えるのです。親に甘えたからといって、親は子どものいうことをすべて聞き入れてくれるわけではありません。しかし子どもは、親に聞き入れられなくても、甘えることによって安心と、元気と知恵がわき出てくるのです。
理屈ですべてが割り切れるわけではありません。奇跡も偶然もすべて神様のお計らいなのだから、神様におすがりしていく。この「神にすがる心」が神道のすばらしさだと私は思うのです。
今までの過程は過程として、心を切り替えて一心に神様におすがりする。仏教の因縁生起の考えからすると、結果は見えているかもしれない。だけど一所懸命神様にお祈りし、おすがりする。すると、不思議な力によって、物事が良き方向に変わってくる。理屈ではなく、変わってくる。そんな体験を大勢の人達が体験していると思います。
これは神様のご守護、仏様のお蔭、御先祖様のお護りなのです。
そうした力、奇跡、偶然は神様のお導きとして、神道では認めているのです。だから神様に色々なお願い事をするのです。そして、お願い事をすることによって心が救われてくるのです。
神様にお願い事をしたり、神様におすがりしたりできることの有り難さが、神道の素晴しさだと私は感じます。理屈を離れたところに信仰の素晴しい力が発揮されてくるのだと思います。神様は私達の親です。何でも聞いてくださいます。すべてを見ていてくださいます。そしてすべてを知っています。
そんな素晴しい神様におすがりすることができるのです。親の深い愛情につつまれたら、子どもは元気が出てきます。やる気も出てきます。頑張れるのです。神様を親と考え、お願いのできる有り難さ。神道の考え方は素晴しいなーと思います。

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