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宮司のいい話

No.164

ふと思う心は神心、後で濁すは人心

どちらかを選ばなければならない岐路に立ったとき、大変迷うことがあります。色々な理由をあれこれ考え判断に困った時、最初にいいナーと思った方を選ぶと良い結果につながることが多いようです。学生時代のテスト問題でも、答えを迷って何度も消し直すような時、案外最初に書いた答えが正しいことが多いのです。又、日常生活の中でも“あっ、あれをしなければならないナー”とか“これをやらなければいけないナー”と、ふと思うことがあります。しかし、何だかんだ理由をつけてやらないでいるうちにすっかり忘れてしまったり、時期を外してしまうことがあります。
例えば“あの人のお見舞いに行かなければならないナ”と、ふと思いながらも、つい先に延ばしているうちに相手が退院してしまったり。“片付けないといけないナ”と思いながらも、そのままにしていると、急にお客さんが来てあわててしまったり。あの時にしておけばよかったのにナーと後悔することがずいぶんあります。
ふと思うときには、何か予感めいたものが働くような気がします。しかし、ふと思ったことを自分の都合によって、理由づけして実行せずそのままにしてしまうことが多いのです。
「思い立ったが吉日」ということわざがあります。何事も思いついたらためらわずすぐ始めた方が良いという意味です。
何故我々は“ふと思う”のでしょうか。人間の魂は神様から戴いた物です。神様の心である魂は、真善美と聖なるものを求めて止まないものです。真実を求め、善なるを求め、美しさを求め、聖なるものを求める人間の自然な働きです。人間関係のしがらみや、自分のわがままや、欲によって、考え方や生活が乱れたとき、本来の真善美と聖なるものを求める神様の魂のお働きが“ふと思う”心となって現れてくるのではないでしょうか。
“ふと思う”心には、自分の欲や計算や汚れがありません。“ふと思う”心は人間の本来持っている本質的な魂の働きであり、神様のみ心です。ですから「ふと思う心は神心、後で濁すは人心」なのです。
しかし、「ふと思う心」が自分の欲望から出てきたものか、そうではないものかを見極めなければなりません。「ふと思う願望」を神心と誤解して実行しては、大変なことになってしまいます。
例えば、あれが欲しいとふと思ったから、人の物でもよし取ってやれと実行したら犯罪になってしまいます。常識の思い、当たり前の考えがあればこそ「ふと思う心」を神心として正しく受け取ることができるのです。そして、素直に実行することによって生活の乱れを正すことができるのです。
「吾十五にして学に志す」で知られる儒教の創始者、中国の孔子は『論語』の中で、「七十にして心の欲するところに従えどものりをこえず」と言っています。のりとは、自然の法則のことです。思うがままの行いをとっても真理から外れることのない、悟りの究極を体得したことを意味しているのです。
「ふと思う心」を一つ一つ実行することが、やがては“私が私が”の「我」がなくなり、孔子のように「心の欲するところに従えども真理を犯さない」悟りの心となるのです。せっかく自分の心の中に宿る神様が折りにふれて「ふと思う心」によって神心を表わしてくださっているのです。「後で濁すは人心」とならないように心掛けたいものです。
自分の心を静かに落ち着かせ、自分を振り返る時間は、自分の心の中に宿る神様との対話の時間です。「ふと思う心」は、神様からのお知らせと思い、神様のみ心に触れて、自分のわがままを反省し、人として充実した日々が送れるように心掛けていきましょう。

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